母親の選択 【第3話】 お母さん さようなら? 

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生まれてからずっと一緒だった。

抱っこしてと言えば抱っこしてくれる。

お腹が空いたと言えばご飯を作ってくれる。

落ち込んでいる時には、何も言わなくても気づいてくれる。

安心だった

何があっても味方でいてくれるから。

でも

それは子供の時だけ限定の特別待遇だ!

羽ばたく時がくる

うまく飛べるのか?

そんなこんなのおバカ息子と

人生の選択に直面した母親とのお話です。

\母親の選択(第1話)はこちらから/

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目次

もしかして

1993年(平成5年)
私、19歳
母、48歳

1993年 流行語
  • インターネット (アメリカで大学や研究機関を中心にコンピュータ・ネットが生まれた)
  • 聞いてないよォ (「お笑いウルトラクイズ」で生まれたダチョウ倶楽部のギャグ)
  • コギャル (少女性を残しながら健康的に遊びなどを楽しむティーン・エイジの女の子)
  • ブルセラ (女子高生のブルマー、セーラー服のこと。女子中高生が身につけていた下着などを売る店)
  • どたキャン (土壇場でキャンセルすること 元来は芸能界で用いられたことば)
  • リストラ (語源はリストラクチャリング(事業の再編成)だが、解雇の意味に使われた)


    引用元:年代流行

ネットができたのが30年前だったのか、まだこの時は知るよしもなかったけどね。

いたいた、コギャル!今は大ギャルになっているだろうな。

ブルセラのブルは、ちょうど私が高校生になるころ社会問題になり女子も短パンに変わった記憶がある、売るために窃盗事件が多発していたし、未成年が売って遊ぶ資金にしたりとめちゃくちゃな時代だったような、でも今でも根強い人気があるブルマ(ブルマ?ブルマー?)

どたキャン!
これはよく使ったぞ、高校時代の合同コンパ略して合コン、3回に1回はどたキャンだよ。携帯なんてない時代だから、土壇場でキャンセルよりも、当日来ないのだ。仕方ないから男たちで飲み会!「ふざけんな!あのブス」とか言ってあんがい盛り上がる。最低だ。

いけない!熱くなり過ぎました話を戻します。

幼馴染のゆみこがこの世を去り、人生について考えるようになったおバカ男子の私。


それでも日常は続く、

オフロードバイクでかっ飛ばして行く港湾の倉庫、日中はフォークリフトを乗り回し、仕事が終われば家に帰る、そしてお母さんの帰宅を待ち、夕飯。

食卓の話題はもっぱらお母さんの会社話を聞く、どうやらお母さんは仕事のできる人のようだ。

お母さんは元々専業主婦、当時はまだ専業主婦が多かったような気がする、私が小学生の頃に鍵っ子という言葉ができて、だんだんと共働きでないとやっていけない世の中になったようだったが。

鍵っ子とは…両親が勤めなどで留守のため,自分で開けてはいれるように,いつも家の鍵を持たされている子供。

お母さんが働きだしたのは私が中学の時、その時からお母さんは私に職場の話をよくする。

その時はもうひとりいた先輩社員さんの話や、工場作業員との飲み会、若い男性作業員のダメ話などなど。

お母さんの働く会社はボイラーを造る工場で、女性事務は雑用や工場の面倒をみることらしかった。営業本社は東京にあり、比較的和気あいあいとした工場のよう。

今、女性事務員はお母さんひとりになり、工場男性の面倒をみている、肝っ玉母さん的な存在。

私と同じ年の人の話や、仕事のできる職人気質な工場長の話だったのだが、ある時からやたら話に出てくる38歳男性工場作業員(中堅社員のようだった)名前は小林さん。お母さんよりも10歳若い。

前は時より出てきた名前だった、歳もよくわからなかったし。

別に気にはしていなかったが



やっぱりそれだよね

お父さんが家に帰ってこなくなったのは私が中学生の時だ、しっかり離婚したのは高校生になってからだから、離婚して4年とその前3年、7年間シングルといえばシングル。

買い物、仕事、銭湯以外はいつも家にいたし、しいて言えば仕事を始めるまではママさんバレーボールをしていたくらい。

すべて家庭、子供中心の生活。

社会人になった私、学生時代はそんなこと考えなかったけど、今はなんだか考えてしまう。

お母さんに

好きな人ができたのか?



私は、おバカ息子だがわかる。


お母さんが小林さんの話をする時は笑顔だ。


でも、聞けない、「お母さん、小林さんの事好きなの?」なんて。


様子を見ることにしよう。

怪しい行動をつかんだのは数日後のことだ!

お母さんの怪しい行動
  • 毎週金曜日の夜に出掛ける
  • パンツの色が派手になる
  • スティックコーヒーが増えた

毎週金曜日の夜に出掛ける

月に一度は会社の飲み会があったようだが、それ以外は出かけることは今まではなかったし、飲み会のあとは、その模様を聞かされたが、この金曜日のことは「お友達と出かける」とだけで、そのあとは何もふれない。
怪しい

パンツの色が派手になる

始めに言っておくが私はマザコンではない。念のために。
この狭いボロアパートだ、雨の日は部屋中に洗濯物が干してある。私のご飯を食べる所とテレビを結んだ直線上にいつも靴下やパンツを干す小さめの洗濯ハンガーが干してあるのだ。

そこには私の軍足(仕事用靴下)とトランクス、お母さんの使い古して薄くなった肌色のババアパンツ(股上深いやつ)が必ずある。

急に変わった!赤いパンちぃー

肌色は目に優しいのに、は目に攻撃的だ!テレビの内容が頭にはいらない。股上も浅いし。

\急にこんなパンツに変えるなよ/

/お母さんはどんだけ純粋なのよ\

雨よ降らないでくれ!

と思った。
怪しい

スティックコーヒーが増えた

これはしっかり説明が必要だ。

まずはお母さんが貧乏性だということをご理解していただこう。昔から旅行や出先にあるタダのものは持って帰る癖がある。それはまだいいが、家族で食べ放題(バイキングスタイル)に行くと、タッパーを持っていき次の日のおかずや夜のデザートなどを拝借していた。子供ながらに怒られないかドキドキしたもんだ。


狭いボロアパートなのに食器棚だけはデカいのがあって、台所には置けないから部屋に陣取って邪魔だった。

この棚にいつからか、ひときわ目立つかわいいコップに差し並べたスティックコーヒーを見かけるようになった。それが金曜日出かける度に増えていく。家はインスタントコーヒーしか飲まないのに。

私も詳しくは見ていなかったが、たまにはコーヒーでもとたまたま手に取った時!

「あれ?なんか見たことがある?」

詳しくはこちらで確認してください

思い出した!高校の時ネネと行ったラブホテルアメリカンに置いてあったやつだ!
(その後違う人と何回かいったことは内緒です)

今のホテルはわからないが、昔はライター、コーヒー、紅茶、緑茶、などのウェルカム的なものが充実していた、ライターは持って帰っていたが、それ以外は持って帰ったことはない。

なぜか、ホテルアメリカンと大きく名前が入っていたから。(見ためラブホテルっぽくはないが)


お母さんは、それでもバレないと思っていたのか?私がラブホの存在を知らないと思っていたのか?

たしかに隣町だからまさかとは思ったかな、いやいや、高校生の息子がラブホテルに行っているとは思っていないか、でもね、こんなボロアパートに彼女呼べないじゃん。


といっても、悪いことはしてない、お母さんは独身だ。

でも、親子で同じラブホって、笑えない。

さすがにこれはお母さんには言えない墓場までもっていく案件だな。いまだに誰にも言っていない。
怪しい

完全に黒だ!

パンツはだし!


ちょっと寂しい気持ちにはなったけど、お母さんだって女性として恋愛はするよね。


とは思っていたが…

再婚?

ハッキリとしないままではあるが、食卓の話題は小林さんと出かけた話が占めるようになった。

私は嬉しかったことも事実で、これまで私のために時間を費やしてくれたことに感謝をしていると同時に、その気持ちが重荷にもなっていることに気づいていたからだ。

高校の時は、友達の急な誘いでご飯を食べたくても、お母さんが家で用意していると思うと、嫌々友達に断ったこともけっこうあった。

もちろんお母さんはご飯のどたキャンに怒ったりはしないけど、自分で勝手にそうしていたんだ。

ちょっとツッパッていたこともあり、友達には毎回噓の理由で断るのが辛かった。

小林さんの話の中でも目をキラキラして話していたのは、富士登山。

お母さんは昔から、富士山に登りたいという夢があった。お母さん以外の家族は登山にまったく興味がない。


その夢を小林さんが叶えてくれた。


何日も前から、ウォーキングをしたり、小林さんと近場の山に練習登山をしたりと半年くらいかけて準備をして、とうとう夢である富士山登頂を果たした。

焼き印の入った杖をいつまでも大事にとっていたと思う。



なんとなく覚悟はできていた、私もいつかは家を出るから、お母さんの再婚もいいのかもなって。

お母さん さようなら

事態は急変する

お母さんが何かに悩んでいるなとは思っていたけど、そりゃあ恋に悩みはつきものだ、乙女だねって。
そんなふざけたことではなかった。


小林さんが会社を辞めて実家に帰ることになったという。


事情があり、実家の農家を引き継ぐことになったらしい。


「へ~、ついていけばいいじゃん、車で行けるところなの?」


「北海道よ」


「・・・えっ・・・」


私には外国だ!飛行機に乗るところは外国なのだ。そんなリアクションになってしまった。


それもよけいにお母さんを悩ませたようだ。


あれ?


と思ったら週末に小林さんと北海道に行った。


お試しなのかなにかはしらないが、二泊三日で小林さんと行ったのは確かだった、話では、お母さんは市内のホテルに泊まって、小林さんの実家には行ってはいないよう。

お土産はこれ白い恋人!

お母さんは赤い恋人だけど(やめてくれ赤いパンツ)しつこいか!

息子からみたらお母さんの赤いパンちぃーはショッキングだよ!
サザエさんがワンレンにするくらいショッキング!

北海道から帰ってきて次の金曜夜、いつものように出かけたお母さんが凄い勢いで家の玄関を開けた。

夜の21時過ぎだったと思う。

「ワニオ!ちょっとちょっと、紹介するから、ほら、待っているからきてきて」

来週の土曜日には北海道に戻るらしく急遽合わせたかったようだ。

と急に言われても、ビロビロのTシャツにドリフのコントで志村が履いているガバガバのトランクス姿だけど!

そのままでいいからって。

無理やり引っ張り出された!

家の前にあるローカルなコンビニにひとりの男性が立っていて、ニコニコと笑っていたのが印象的。

私が思うほどガタイのいい人ではなかった(富士登山の印象でそう思っていた)。

身長は私よりも小さく小柄で、とっても人の良さそうな感じ、お父さんとは正反対の誠実そのものといったところ。この人なら安心かなとも思った。



うちのお父さんはイケメンでナンパな感じ、どんな女性でも笑顔にしてしまう遊び人。

お母さんは、私と小林さんの間に立ち、はち切れんばかりの笑顔(お母さんのこんな顔は見たことない)。

そして私の肩をたたき「次男坊よ!」
この「坊」ってなんだよって照れ隠しのように頭で考えた。

ヤンボー マーボー天気予報のボーか?
ドリフの志村、加トちゃんの坊か?(ケン坊、チャー坊)

小林さんはシャイなようで、笑顔で頭をペコペコ下げていた。

そりゃあそうだろうな、向こうも気まずいだろうなと思うし、この立ち位置は私の方が優位な気がして、ワーッと考えたあげく、

「お母さんをよろしくお願いします」

と言って頭を下げ、お母さんをおいてひとりで家に戻る。

私の言える精一杯の言葉だった。

玄関を開け家に入る

あれ?なんかおかしい

すこし涙ぐんでいるのか

お母さんには見られたくはない

布団に潜る

お母さんはお母さんじゃなくなる?

いや、お母さんはお母さん?

小林さんの奥さん?

苗字も変わる?

お父さんは俺をおいて出ていった

お母さんも俺をおいて出ていく?

いや、俺は大人じゃん

仕事もしている

ひとりで生きていけるし

ひとりで大丈夫だし

お母さんは子育ても終わったし

お母さんの人生だし

お母さんがいなくなるなら

俺はこのボロアパートを出よう

でも来週は急だ

待ってよ

そんな

もう少し時間をちょうだいよ



いや


お母さんの人生じゃん


なんか俺

・・・

情けねぇ

と、考えている時にお母さんは帰ってきた。

「ねえ、ワニオ」

呼んでいるのはわかったけど、今、顔を見られたら誤解されるからシカト。

その後も何回か声をかけられたが、寝たふりをして、いつの間にかほんとに寝た。


布団からコッソリ覗いて見たお母さんは、困っているのか考えているのかどっちともとれる雰囲気に見えたけど今日は話せない、ごめん。

翌朝

いつものように元気に起こしてくれた(土曜日も仕事)。


いつも通り?いや、いつも以上に元気?

仕事終わって帰ってきても、いつものお母さん。

一週間たっても、いつものお母さん。

あれ?北海道に行かないのか?

しばらくたった平日の朝

「お母さん北海道に行くのやめたわ」

「ちょっとちょっと待っゴモゴモ」絵に描いたようにご飯が喉につまる!

「いろいろ騒がせてごめんね~、小林さんはお母さんよりも10歳も若いしさ、お母さんは農家のお手伝いはできないわ」

私の顔を見てから

「あんたは関係ないからね」

と笑って言った。







正直言って、安心した。

お母さんの本心はわからない、でも昔同じようのことがあった。
小学4年生の時に私は盲腸で1週間入院をした。狭いボロアパートで暮らす私は隣にお母さんがいない夜はまだ経験がない、修学旅行もまだ先だったし。
初日の夜、面会時間も終わりお母さんが帰ろうとした時、私はお母さんの手を握って「行っちゃうの」とボロボロ涙を流した。
「おうちに帰らないとね」と私の繋いだ手を振りほどいて出ていく。私はお母さんが出ていったドアを見続けたけど、大粒の涙でにじんで見えない。






またドアが開き
誰かがこっちにくる!

お母さんだ

黙って私のベットに一緒に入る「仕方ないわね」と言って。


を、思い出した。




少しの間、小林さんと手紙のやりとりをしていたようだが、一通のハガキを最後にパッタリなくなる。

そのハガキには

お見合いをした方と結婚することになりました。


と書いてあった。








終わり

追記
その後は体の悪いおばあちゃんも合流、私とお母さんとおばあちゃん3人の生活になった。

このボロアパートで・・・



おばあちゃんとお母さんが昔暮らした亀戸の探索記はこちら

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • お母様の大人の恋。素敵です。少し間でしたけど幸せな時間だったでしょうね。叶うことはなかったけどお互いにたくさん話しをされて決めたことだと思います。最後に小林さんから送られてきたハガキ。小林さんにとっても完全に終わりというケジメのような気もしました。お互いにきっと大好きだったでしょえね。ワニオさんもちょっとさみしくもあり、今まで苦労されたお母様を応援したかったこと。伝わってきました。いくつになっても恋はしたいですね。心の中でですけど。既婚者なので😆 めめ。

    • めめ様コメントありがとうございます。
      子供の時は母親の恋愛なんて考えたこともなかったです、しかし、育児も終わり離婚後となってはひとりの女性なので、あって当たり前ですしあった方が人生が充実するのではないか。とも思います。その後、私は家を出てお母さんは一人暮らし。あの時のお母さんの選択のことは未だに話したことはありません。私のためだったのだろうか?

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